2011/11/13

暇人の道楽としての数学

暇人の道楽としての数学は、けっこう有意義なもんだと思うんだけど、
どうしたもんだか世の中からはあまり注目はされてない。

理由は簡単で、数学ってのがあまりいい形で教育されてないからだろうと思う。
中学、高校ぐらいで学校でやってる『数学』ってのは、
大学までの数学とは違って、まるまる棒暗記でも対応で来てしまうもんだ。
点数取るためならそれでも構わないけど、
数学で楽しもうとか、思考の道具として使おうなんて思ってるなら、
暗記してしまうってのは具合が良くはない。

数学が積み重ねの学問だと言われてるのは、
初歩がわからないと後ができないというわけではなく、
後に行けば行くほど、初めの方のものを圧縮して使うってことで、
この認識の違いが世の中にスパルタ式な数学教育を
蔓延させてしまっているんじゃないかと考えている。

(受験とは程遠い高校で遊んでたもので、学校教育の数学はうろ覚えなんだけど)
受験用の数学というのは、些末事をかけ合わせて複雑にしているだけで、
はっきり言って数学的には面白いものはとくに無い。
数学として面白いかどうかは主観による所が大きいと思うけど、
まあ、上で書いた圧縮がうまく生きてるのが
美しさの一要因になるんじゃないかなと。

論理展開の美しさとか、概念の扱いのスムーズさとか
色々な評価軸はあると思うのだけど
(ここで情けないのは、数学は好きだが、そんなに極めてるわけじゃないんで
 曖昧な表現しかできないところだなあ)
数学のみを見て美しいと言っている人は皆無じゃないかと思う。

そんじゃ、そういう数学がなぜ暇人の道楽としていいのか。
暇人は時間があり、頭を集中的に使うとあっという間に時間がすぎる。
そんで、手馴れてくれば処理できる量も増えるが、
それ以上に自分がやりたいことなんかもできてきて、
結局エンピツ片手に紙とにらめっこしているうちに数週間が立つぐらいは
平気で起きるのが趣味としての数学の凄さだ。
研究者ならば、業務としてやらなきゃいけない論文や
学生の指導なんかもあるからそんなに時間は避けないが、
暇人であるなら、そもそも時間が有り余っているのである。
さらに言えば、結果も出ても出なくてもいい。
さんざん考え倦ねた挙句、ちょっと論文を検索したら
自分がやろうとしていたことがすでに体系化されてるなんてことも
そこそこあることじゃないかと思う。

そんな訳で、布団の中でもトイレの中でもどこでもできる数学。
いい道楽に化けると思うんだけどなあ。